Web3.0な時代って、もう来ているのかも。
もしかすると、ワカっている人には今更な話なのかもしれませんが。

まだ読んでませんが、最近あのホリエモンが出した本に「稼げる 超ソーシャルフィルタリング」というのがあるそうです。
「ソーシャルフィルタリングとは、洪水のように溢れる大量の情報をふるいにかけ、そこから役に立つ情報だけを手に入れ、仕事にアウトプットする方法である。」とホリエモンは述べているそうです。

http://friends.excite.co.jp/News/column/20100514/Lifehacker_201005_post_1480.html
上のexciteの紹介ページによると、Twitterが引き合いに出され、「真に自分に対して有益な情報を流してくれる人を、厳選してフォローすることで、押し寄せる情報から身を守ります。」とも説明されています。
情報摂取におけるマキャベリズムというところでしょうか。Google検索のような機械化されたシステムではなく、人間の手で厳選された情報だけを摂取するという点では、オーガニックと言っていいかも。

確かに、情報が向こうから流れてくるようにと考えて僕はTwitterで「googlenewsjp」をフォローしたりRSSリーダーを使ったりしてるのですが、来る情報をぜんぶ読んでたらそれだけで一日が終わってしまうわけです。
今やもう、検索して探し出したり購読して取り寄せたりという情報との付き合い方が時代に合わなくなっているんですね。

情報ナビゲーションの進化には、「必要なものを、表に出す」ことと「必要ないものを、視界から隠す」という両面があると思うのですが、情報感度の高い一部の人々にとっては、すでに「隠す」ことの方のみがテーマとなっているかのようです。

※まだ読んでない本を宣伝してしまって恐縮ですが、アフィリエイト貼付けのテストってことで。




Web進化論?

「ウェブ3.0と黒川紀章」CNET
http://japan.cnet.com/blog/sasaki/2008/05/27/entry_27001839/
↑これは、実に2年前の佐々木俊尚氏の論考です。
Web2.0の狂騒が後景に退きつつあった2008年当時、その次に来るべき「Web3.0」の輪郭がそろそろ見え始めた、それは「パーソナライゼーション」と「レコメンデーション」からなる「自分自身による、情報の再集約」だ、と書かれています。

情報ナビゲーションという観点から見て、Web2.0とは何だったのか。それ以前の時代からWeb2.0・そしてWeb3.0に至る進化が目指したものは何なのか。

門外漢の目から見て、Web2.0時代とは早い話Googleの時代でした。Webに「1.0」があるなら、それは「Google以前」ということになるでしょう。
「Google以前」の時代、検索はあまり使い物にならず、情報のナビゲーションは人力整理によるディレクトリ型ポータル、というか早い話Yahoo!に頼っていました。
そこからWebへ漕ぎ出して、無目的にリンクをたどり流されるようにサイト間を移動する行為が「ネットサーフィン」と呼ばれ、カッコいいことだと思われていたと記憶しています。
情報がただ散らばっていた時代。情報を探すこと・ナビゲーションできることに価値があった時代。
キーワードは「散在」と「整理」ってところでしょうか。

その後、Web2.0の旗手であり代名詞となったGoogleの登場でWebの使い勝手は変わりました。
その検索結果はただ並んでいるのではなく、検索者のニーズに近いと機械的に分析されたものが上位表示され、実際その分析がよく当たるわけです。
散在するWebサイトは、検索すれば見つかる。しかもGoogle AdSenseの三行広告を入れれば小遣い稼ぎもできる。
このことが草の根的に存在した多くのサイトに脚光を当て、またサイトを広告媒体とみなすことによるblog等のサービスの無料提供が一般化し、情報爆発を下支えするダイナモとなりました。
広告モデルに支えられた「情報爆発」と、爆発的に増えた情報をフィルタリングする「検索技術」を両輪とした壮大なマッチポンプがGoogleをカリバー企業に押し上げ、Web2.0の狂騒を生み出したと言っていいでしょう。
キーワードはもちろん「フィルタリング」と「インフレ」。情報の入手も発信も格段にやりやすくなり、大量生産・大量消費が行われたWeb界の高度成長期でした。

そして、さあ次だ!となるところでリーマンショック→金融恐慌→世界的緊縮ムードとなって、Web3.0なんて浮かれたワードはどこかへ行ってしまいましたが…すでに提示されていた方向に向かって粛々と進化は続いていたのでしょうか。


「人」と「ご縁」

情報ナビゲーションという観点からのWeb1.0→2.0への進化とは、つまるところ「散在」する情報を「整理」する手間をなくす、ということでした。
Web2.0時代において検索やアグリゲーターなど各種「フィルタリング」機能がそれを解決し、一方で情報の「インフレ」を招いた結果何が起こったか。

サイト数とWeb人口という分母の圧倒的な肥大化の前で、情報の誤り偏りはあるいは正され、あるいは検索結果の後ろの方に追いやられて、目に飛び込んでくる情報はカドの取れた、最大公約数的な、平準化された情報ばかりになっているのではないでしょうか。
Web2.0時代にもてはやされた「集合知」の効用とは、言い換えればそういうことだと思います。

平準化された情報をフィルタリングして合目的的な情報だけを取り出すという行為の結果には、偶然や意外性の入り込む余地がなく、容易に情報の同質化・視野のタコツボ化を招くという宿命を持っています。そこに決定的に欠けているのは、異質なものどうしが出会うことによる刺激です。
「異質なもの同士が偶然出会い、触発され化学変化を起こし、新しいものが生み出される」といった種類の刺激は、Web2.0的トレンドが進行すればするほど遠いものになるでしょう。
「Web3.0」があるとするなら、そういう同質化・タコツボ化へのカウンターとして起こってくる可能性は高いと思います。

そうした偶然による触発を何らかの仕掛けで誘発しようとするとして、例えば検索結果の中に関係ない情報をランダムに混ぜ込むようなやり方では単なる雑音になってしまいます。
雑音が雑音としてでなく何らかの必然性を持って提示されるとすれば、例えば「一見関係ないカテゴリ同士だけど、ともにある個人の中の関心の対象である」とか、「自分としては接点がなかったが、知人が興味を持っている」といった形の、いわば「人」によるフィルタリングを頼りにするしかないのではないでしょうか。
「人」というフィルターを通してのカテゴリ越境の可能性・偶然の出会いとは、極めて個人的・属人的な体験の中にのみ発生しうる、いわば「生き様」に属するものだと思います。「ご縁」と言ってもいいでしょう。

ソーシャルフィルタリングとは、発信者が信頼に値するどうか、つまり人というフィルターに基づいて情報を選っている点で、Web3.0的世界を代表する現象のひとつと呼ばれるようになるかもしれません。
Facebookが、大手ポータルへのトラフィック誘導元サイトとしてGoogleを超えたというトピックは象徴的です。


分散した「個人」の集約、仮想化される「個人」

ある人がWebサイトにメール、blogにTwitterと、一人でいくつものサービスを利用することが珍しくありません。
それらの利用履歴、いわば分散した各種ライフログ情報をひとつのユニークIDのもとに集約することで浮かび上がってくるその人の「顔」・人格情報の塊があたかもその人の分身のように情報受発信の主体となり、あるいは他の主体とつながって関係を作っていく。そこに向けて各種サービスが提供されていく、という未来を想像してみると、Facebookが躍進することもよくわかります。
すでに主戦場は、ライフログ情報を集約するためのユニークIDの取り合いに移行しているのでしょう。

ここにスマートフォンなどのモバイルデバイスがからめば、位置情報によるリアル空間での行動履歴や、通話も含めた交友の履歴、さらには決済機能もこの分身に統合されていき、ますます精密にユーザの人となりが浮き彫りにされていくでしょう。
そうして出来あがるのは仮想人格としてのペルソナといったレベルのものではなく、仮想化された実在の個人そのものです。
あるいは、複数の個人のライフログ情報を平準化することでよりリアルな仮想人格が作られる、ということも起こってくるかもしれません。プラットフォーマーからすれば、「ペルソナ卸業」による情報のマネタイズ、というのはアリでしょう。

検索結果の中では、大企業のサイトも個人サイトも、PageRankのようなアルゴリズムの前で等価に扱われます。
既存のヒエラルキーによらず、情報を人気投票的なルールでランク付けし直すということがWeb2.0時代の重大なテーマでした。それをチャンスに発言力を得た人も多いはずです。
Web3.0な時代に起こってくるのは、Web上に仮想化された実在の個人が、Web上の新たなルールによって評価され、新たなヒエラルキーに組み込まれていくということではないでしょうか。その兆候は「ソーシャルフィルタリング」という現象としてすでに現れています。
その先にあるのは、リアル社会と何らかわりない、案外平凡な世界なのかもしれません。




……とここまで観念的な印象論を延々と続けてきたのはすべて前フリ。

本当に言いたかったのは、人力整理から検索への流れはローカルPCのドキュメント管理でも同じであり、かつ今はまだ検索の段階に留まっているけれど、EBtやBTRONに期待するタイプの人なら、その先をイメージできるのではないかという話なんです。

EBtを使っている人なら、EBtがライフログそのものであり、「自分(の記憶)との対話による触発」を誘発しうるツールであると理解し、期待していることと思います。

BTRONもそういうツールなのですが、こちらはネットワーク透過性が皆無で、入力もデータそのものも自分のPCに縛り付けられています。
「BTRONは、日記帳だ」というのがファンの間では共通認識になっていますが、言い得て妙です。日記とは、1日を最小単位とするライフログ。その辺がBTRONの到達限度なんですよ。(だからこそ、持ち運べるBTRON端末・Brainpad TiPOにファンの期待が集まったのだと思う)


それに対しテキストベースのEBtは、本来Webとの親和性は高い。ライフログの集合としてのEBtがWeb上であちこちに存在し、InterWikiNameのような感じでサイト同士が連結されて相互にリンクや参照ができるようになれば、思い切り可能性が広がると思うのですよね。
Wikipediaに代表される「集合知」とは、つまるところ情報の誤り偏りをWeb人口の数の力で希釈する試みであるように思いますが、EBtはそれとは違った創造型の集合知の形を提示できるような気さえするのです。「創発」って言うんでしょうか。

今のEBtシェルは、ローカルアプリであるオリジナルのEBtをブラウザ内でとりあえず再現しただけで、データは誰でも読み書きできる丸裸の状態だし、メモごとに閲覧レベルを設定することもできません。
逆に言えば、今後機能追加する際にはそういう方向での機能追加をしたいと思っています。

ただし僕はプログラミングの素人なので、アップデートのペースは遅いと思いますし、思い描く機能を追加できるスキルもないかもしれません。
ユーザとしても大したことない(2年使っていて総メモ数855)ので、熱心なEBtユーザの皆さんのほうがいいアイデアをお持ちかもしれません。

もしお力を貸していただける方がおられたら、どうか自由に書き込みしてください。

Posted : 2010/05/23 02:46:37

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